CPV地球価値創造フォーラム2015 Creating Planetary Value 第1回 7/1 キーノート:竹村真一

2015/08/10

 第1回 CPV地球価値創造フォーラム2015 Creating Planetary Value

 

7月1日(水)18:30〜21:30

キーノート 竹村真一(京都造形芸術大学教授/ELP代表/「触れる地球ミュージアム」主宰)

 

第1章:“触れる地球”による現状の地球に対する認識を改める

地球経済の基礎となる地球の豊饒な生産力・回復力とその危機

まずは、“触れる地球”を使って今の地球の現状をご覧いただいき、共有していただいて、そこから議論に入っていきます。

cpv_7903-121世紀の子どもたちは未だに、16世紀信長の時代につくられた平面のメルカトル図法による地図を使って、地理、歴史、環境問題を学んでいることが残念でならないので、21世紀の子どもたちには21世紀の地図を、との思いで“触れる地球”を10年来創ってきました。

地球儀のあちこちにあるのぞき窓から、「どこでもドア」のようにいろいろなところを見られるのですが、ほぼライブで中継されます。この地球儀をグルリと回すと、半分昼で、半分夜。今、ちょうどニューヨークが朝を迎えたところです。逆を見ると、東京に、まさに夜のとばりが迫ってきています。 ちょうど北極の辺り、今は夏至に近いですから、まさに北極は白夜、逆に南極は極夜になってほとんど陽が出ないという状態です。 こんな地球儀が全ての小学校にあれば、グローバル人材、グローバル教育と口先で言うだけではなく、基本的に子どもたちが毎日グルグルと回して、「北極は、夏至を迎えて白夜なのだ」とか「どこかで火山が噴火したけれど、どうなっているのかな」などと見ることができます。

cpv_7904この様に、“触れる地球”は、色々な国や場所の「今」の状態を見ることが出来るわけです。

 一方、雲の動きなど気象状況をほぼリアルタイムでモニターできます。たとえば、今年は、梅雨前線がなかなか消えません。普通は夏になると太平洋高気圧が発達して梅雨前線を北に押し上げるので、夏はカンカン照りとなって暑くなりますけれども、この梅雨前線が余り押し上げられない。エルニーニョ現象ではないか、と言われています。今年のエルニーニョ現象の予測を見ますと、かなりエルニーニョが発達しています。

したがって、この地球儀を見ていれば、地球の体温と体調が、現在、どうなっているのか一目でわかります。飲料ビジネスであれば、エルニーニョ傾向だから、清涼飲料水の売れ行きが悪いかもしれないから別の戦略を立てようかなど、日常生活でも少し備えができるわけです。

このように、子どもたちでも、一般の人でも、いきなり天変地異、異常気象に襲われてから大変だ、どうしようと動揺するのではなく、“触れる地球”を通じて、地球と対話しながら、もう少しエレガントに、新たな地球人の文明を創れる可能性が出てきているわけです。

CPV1-2015

“触れる地球”によって、地球をリアルタイムにモニターできる時代、そして私たちはそういう時代に生きる初めての地球人になると思います。何も危機感を煽るためだけにつくっているわけではなく、むしろこういう形で地球という星の美しさ、素晴らしさ、そういうものを認識できるようになった初めての世代として、そういう感覚を養う新しいツールとしてあるわけです。

台風の被害がいつも報じられますが、一方で、台風は海を深いところまでかき混ぜることで、深層にある、栄養豊かなミネラルに満ちた深層水をくみ上げ、プランクトンの増殖を促進する、そうした働きもあるわけです。このプランクトンの増殖を見ていますと、本当に地球の豊かさを感じるわけです。同時に、この水中に漂う微小な単細胞生物である植物プランクトンは、海洋表層で浮遊しながら太陽光の エネルギーを利用して光合成を行い、二酸化炭素と水から有機物を作り出し海洋生態系を支えています。つまり森などと同様に、太陽のエネルギーから酸素、水素、炭素というありふれたレゴブロックを組み合わせて、われわれの食べ物にもなるような有機物を合成するといった、人間がまだまだ追い付けない凄いことをやっています。

このように物質を高次元化することをやりながら、同時に有機物の結合エネルギーに太陽エネルギーを貯蓄して、それを何年も後にわれわれがそのエネルギーを利用する。あるいは石炭や石油の形になると何億年、何万年というスケールで、時間差で太陽エネルギーの貯金箱を使うといったようなことを私たちに可能にしてくれる、そういうシステムです。

学校では、このようなビジュアルな学習機会はないのですが、‟触れる地球”では、太陽エネルギーの貯金箱をたくさんつくってくれる植物プランクトンの増殖や森の光合成による発達など、そういうものが見え、地球は本当に豊かな星であることが、解ってくると思います。

植物プランクトンは、陸上の植物と同様に、光合成というとだいたい二酸化炭素と水、太陽エネルギーから有機物をつくると習うのですが、CO2と水、太陽だけでは生物は生きられないわけです。どんな生物も、遺伝子にはリンが必要ですし、タンパク質には窒素が必要ですから、そういう微量原子やミネラルをどこから供給されるか。

例えば、タコで有名なアフリカのモーリタニアの海域ではプランクトンが大増殖していますが、これは貿易風による海底からの深層ミネラルを上げる湧昇(ゆうしょう)や、季節風による鉄分やリン、窒素、ミネラルをたくさん含んだサハラ砂漠の砂塵がその源泉だといわれています。特に、サハラの砂塵は、最近の研究で、貿易風に乗ってアマゾンに届き、サハラの砂がアマゾンの森を育てていることが科学的にも実証されてきました。

この様に、地球は全て繋がっているだけではなく、実はわれわれが災いと思う台風は海を蘇らせる、サハラの砂嵐による砂塵がアマゾンを育てるなど、いろいろな形で恵みをもたらしています。

19世紀、20世紀に科学は発達して大きな文明をわれわれにもたらしましたが、それをひとつ礎にして、私たちはもう一段、新しい形で地球の精妙なメカニズムや動きを認識する時代に入ってきています。そういうことも、この地球儀をずっと見ているとわかります。本当に地球の美しさ、ダイナミズム、と同時に、災いも含めて、いかに地球が生産的な星であるかを痛感させられます。

まず地球の豊かな再生能力を認識した上で、われわれ人類の作り出したその再生能力を生かせない形のバッドデザインで、いろいろな問題が起こってきていることをきちんと認識すべきなのです。例えば、アマゾンだけでも数年前までは、年間2万6000平方キロ、1日に換算すると山手線内分くらいの森が毎日なくなっていて、既にアマゾンの25%ほどが消滅したと言われています。ボルネオに関してはもっと早い速度でなくなっています。地球の担保、つまりCO2の吸収源であると同時に、保水、地球環境の調律装置であり、そしてまた生物多様性、いろいろな遺伝子の宝庫である森林が、こうした形で失われています。

また、都市への人口の集中に伴う地球温暖化により、アジアの水銀行であるヒマラヤの氷河が溶けてなくなるということは、ほぼ食料を自給しているインド、中国、東南アジア合わせて30億人スケールの人々の農業用水が失われていくことを意味します。

 また、旱魃によるアメリカ、ロシア、オーストラリアにおける穀物農業生産の低下は、中東の穀物輸入国の経済状況を悪化させ、それが内戦や政変につながっています。

日本だけではなく世界中で、私たちが毎日聞いているニュースの真相にはこういう問題が常にあるわけです。それを見ないで、単なる政変、宗教の問題とだけ捉えていると本当の意味でグローバル・リテラシーというものがなかなか育たないことになります。

第2章:日本の地球価値創造

・「食の万博」ミラノ博 日本発のソリューション

「Feeding the Planet, Energy for Life.(地球に食料を、生命にエネルギーを)」というミラノ博のテーマは、的確に問題を集約しています。現在の地球の状況を見ていると本当にあと数十年で100億人に近づこうかという地球人口は食っていけるのか。それは量的に足りるかという問題だけではなく、質的にどうか。実は、既に栄養不足人口は今でも10億人ですけれども、その倍、20億人の肥満人口が世界にいます。食というものは、「人を良くする」と漢字で書くわけですが、全然なっていないじゃないか。そういう量と質の両面から、どういう問題に取り組んでいかなければならないかと。

IMG_7926-1日本パビリオンでは、ミラノ博が世界に提示したテーマ、すなわち、「人口爆発と食料危機、さらに追い打ちをかける温暖化と気候変動、そして質的にも肥満と栄養不足、それを悪化させる過剰なグローバル化」という課題に対し、きちんと地球価値創造という視点からソリューションを提示しました。ここでは、ローテクな伝統的な農業のあり方から、ハイテクな衛星を使ったり、冷凍技術を使ったり、人間のためにもなり、地球のためにもなる、こういうものをてんこ盛りで日本は提供し得るポテンシャルを提示して、世界のお役に立とうではないかといった発想で日本館をつくりました。

食料の量的な問題からいうと、90年代から中国、インド、ブラジル、いわゆるBRICsをはじめとした新興国の高度経済成長によって食料需要が増えた。食料需要が増えるのは、単にたくさん食べるだけではなく、肉食が増えていく。これによって、10人分の食であった穀物が牛の飼料として経由し、牛肉にして食べることになるとたった1人分になるそれだけ一層需給がひっ迫することになります。その結果、現在、リーマンショックくらい前までの食料価格に比べ軒並みだいたい3~4倍に、小麦、トウモロコシ、大豆も増えてきています。そこに、世界中での旱魃、異常気象という気候変動がさらに需給のひっ迫に追い打ちをかけてきています。

質的な部分でみると、今の25億トンほどの穀物を普通に、今の世界人口に分配すると、増産のおかげで、まだ1日2000キロカロリーという最低限の必要エネルギーは足りるはずだが、実際には肥満人口と栄養不足人口がある。食料廃棄が生産量の3分の1にも及んでいる問題もあります。以前は、途上国では栄養不足、先進国では肥満という二元論だったのですが、最近ではそうではない、途上国にも肥満が増え、先進国にも栄養不足が随分多い。なぜそういうことになっているかというと、根本的に人口の半分が都市に住むという人類史上未曽有のアーバニゼーションにより遠くから運ばれてくる食料に依存する度合いが高まっています。

これと相まって、自立的な農業をしていたところがプランテーションに変えられるなど、どんどん大規模農業が発達し、世界の8割を占めるスモールファーマーズの自立的な農業は世界中で大きく後退しています。つまり自分の食べる物くらいは最低、自分でつくる、あるいはお金がなくても最低限食べていける基盤が1980年くらいまではあったわけですが、自立的な農業がスポイトされて、こういう農民がプランテーションで働いて賃金を得て、その賃金で食料を買う事態に陥っている。しかしそのプランテーションの作物、コーヒーやカカオ等々、暴落したら急に解雇される、あるいは賃金が安く抑えられるなどするわけです。それまで、最低自分が食べられる分くらいの自給力はあったので、異常干ばつなどは別として、最低限の生活はだいたいどこでもできたものが、一挙に国際経済の情勢に左右されて、毎日の食べ物も手に入らない。お金がなければ何も買えない。買えたとしても、一番安い(悪い油を使っている)ジャンクフード。従って途上国の貧困層の中に肥満が増える。それで20億人の肥満人口はそうしたことも反映しているのです。

この様に、社会のバッドデザインの中で、私たちは非常に脆弱な、とても体力の弱った地球社会をつくっているということです。

今の状況を総括すれば、地球のサステナビリティと人間のサステナビリティ、あるいは地域のサステナビリティが三つ巴で脅かされているのです。貧困格差とは、このように根底的な、生態経済の部分で脅かされています。

それに対して何もできないのではなく、日本は全方位的にいろいろなソリューションが提供できます。例としては、

・大豆を牛の飼料として使うのではなく、豆乳のような美味な食べ物に転換する技術

・捕獲した幼魚からではなく卵からの完全養殖

・ミドリムシの食糧化

・冷凍、氷温冷蔵、ネピュレ化による食糧の合理的な配給技術

・廃棄食品の有効利用技術

・持続可能な農業OSとしての水田や里山

・気候変動に強い稲

・うまみ成分を含んだ食事による過食予防など普通の食材を栄養価高く、美味しく食べるノウハウ

・麹やカビの利用

・スモールファーマーズや疲弊した家族農業をサポートするようなネットワークシステム、コーポレートユニオンのシステムの提供

等々が挙げられます。

何よりも世界の今の貧困や紛争を生み出している根幹に、水や食料、気候など地球の生態学的な再生産能力をスポイルしている、われわれのバッドデザインがあるのであれば、最大のpeace weaponは、そういう問題を解決する技術や知見を日本が提供することではないでしょうか。

・エネルギー・素材・水・生物多様性など多分野での日本の地球価値創造のためのシーズ

農業以外にもエネルギー、素材、いろいろな部分で同じような地球価値創造のタネが日本にはたくさんあります。たとえば、今まで悪者として排出していたCO2を回収して、資源としてそれを良い形で活用する新しい炭素技術が育っています。

cpv_7931エネルギーの分野では、森や水田が太陽エネルギーを貯留して、太陽エネルギーの貯金箱になっているわけですけれども、人間の都市や住宅も、有機太陽電池を使って、森や水田のように太陽エネルギーを蓄電する、地球の一機関になり得る時代にきているのです。

実際、それが絵空事ではなく、たとえば太陽エネルギーの変換系である風力、水力、バイオマス、何でも良いのですけれども、既に中国などでは実際の発電量において、原発を抜いている状況です。そんな形で再生可能エネルギーが大きな可能性を実証してきたこの10年なのですけれども、さらに、捨てていた茎の部分、稲わらなど捨てていた植物からプラスチックをつくる技術もある。あるいは、クモの糸を実用的に大量生産するバイオインスパイアード(生体模倣技術)や、そういう世界がかなり実用的になりつつあります。

そのように考えてみると、まだまだ人類の文明は伸び代があるわけです。20世紀は素晴らしい文明をつくったと思っていますけれども、白熱電球のエネルギーは、投入エネルギーの約1%しか光にできていない、あるいは自動車はそれくらいしかわれわれが移動することに使えていない。99%をムダにしているということは、要するに100隻分のタンカーで輸入した石油の99隻分を残念ながら捨てている状態なのです。都市のヒートアイランド現象を悪化させる排熱みたいな形で捨てているのですから、非常にムダが多い文明とも言えます。しかし99隻分も捨てているということは、逆に言えば相当な伸び代があることでもあります。たくさんやれることはあるし、実は日本が提供できる価値の中にたくさんヒントがあります。

一方、水不足の問題が言われていますけれども、水が足りないなら水を使わない都市をデザインすれば良いという発想があります。これまた絵空事ではない形で、たとえば日本のトイレメーカーは、嘗ては一度流すために16リットル使っていたものを、今や4リットルしか使わないトイレを世に出しています。

これから中国、インドなど新興国がどんどん経済成長に従って水洗トイレを入れていくとき、16リッタートイレなのか、このトイレなのか、無水トイレなのかによって、地球の水の状況は相当違ってきます。そう考えると、これまた、われわれが提供できる価値はたくさんあります。

それからスカイツリーは、2600トンの大雨水貯留タンクを持つ水循環都市モデルの優等生です。実際、東京の水道需要は年間20億トン。それに対して東京に降る雨は25億トンもあります。すると雨水を良い形で利用すれば、ずっと私たちの水道への依存度や上下水道を維持するためのコストを低減できるはずなのです。なぜスカイツリーみたいなところではじまっているかというと、墨田区は洪水地帯です。日本は海抜10メートル以下の都市部に人口の半分、社会資産の75%が集中する大変リスキーな国家構造になっています。その一番の典型が海抜ゼロメートル地帯の、海面より低い墨田区なのですね。

ここは自衛手段として、もう20年以上も前から、墨田区内に降った雨は、それぞれのビルに少しでも貯留するシステムを導入しています。なぜ都市型洪水が起こるかというと、これまでは森や土に浸透して、少しは保水してくれていたものが、全てがコンクリートジャングルになり、全てが下水道に流れ込むからなのですね。だったら、それぞれのところで少しずつ貯留をして洪水を防ごうというものです。

でも別にこれは新しい発想ではないのです。日本人がずっとやってきたことです。日本列島は急峻な地形で、雨が降ってもあっという間に流れ去って洪水と渇水を繰り返す川を、田んぼという形で少しずつ貯めて洪水を防いできた。洪水を防ぐと同時に保水をすることによって、カエルや魚もたくさん育ち、それを食べる鳥も来て、生物多様性が増進された。

そういう形で人間は与えられた災いをもたらす環境に手を加えることによって、逆に災いを恵みに転じて、洪水防止と生物多様性、いろいろな付加価値をつくってきた歴史があります。それを都市部でもやろうよ、ということなのです。

ということはスカイウォーターツリー方式が広がっていくと、洪水緩和、渇水対策、いろいろな形で世界中に大きなレスキューを提供することができます。

かつては理想論だったかもしれないことが、この15~20年でかなり現実的になってきているのです。しかもそういうものの大部分が日本にある。だったら日本はそういうものを提供する地球価値創造の拠点になれるでしょう。さらに地球の体温と体調をセンシングする技術は既に数多くあります。

山形にあるシェルター社は、「都市を森に返す」というコンセプトで間伐材を使って耐震性と耐火性に優れたこれまでにない大型木工建造物を作っています。そういう道ができると、都市をつくるほど、建築をつくるほど、ビルをつくるほど森が育つ、森が増える、そういう好循環が生まれるわけです。木骨都市モデルも、珍しい技術ではなくなります。むしろ20世紀が鉄とコンクリートに変えていく世紀であったとすると、21世紀は木で、森で都市をつくり、都市をつくるほど森が育つ。それが標準になっていく。それをやっていくと、今の都市と森林の関係が相当変わってくるわけです。

この様な優れた技術や発想を、オールジャパンで提供していくことがどうしてできないのか、ということです。

そういうオールマイティなシーズが、食や農の分野以外にもこれだけいろいろなものがあって、地球価値創造的な技術、あるいはOSとして世界に提供しようと、そのビジョンを明確にすることがこの地球価値創造(CPV)フォーラムの目的です。

大爆発しつつあるアジアをはじめ世界中で水大量消費型の水洗トイレが増えていくのか、水を使わなくて良いトイレが増えていくか。あるいは20世紀のアメリカ型のファーストフードが広がって肥満と栄養不足が増えていくのか、少ない栄養素を、シンプルな食材でも高付加価値で食べていけるような食文化が広がっていくのか、サステナブルな農業技術が広がっていくのか、とても大きな岐路だと言えます。

そこをきちんとやとうとするとき、どうもまだ日本は要素技術を売ることに始終しているところがあります。日本人にはこれだけ地球貢献のシーズがあって、人類的な課題解決、しかしそれをどういう形で「見える化」して、世界にpeace weaponとして届けていくか。そこで、新たな地球価値創造という視点に立ったコンセプトが必要になってくるわけです。

このコンセプトつくりを、戦後の日本は全くやってこなかった。あるいは明治維新以降、コンセプトは世界から借りて、自分たちでそれをつくることをしてこなかった。しかし、これだけの要素を、どんな風呂敷に包んで、どんな形でpeace weaponとして届けていくか、これはどこかでやっていかなければならない作業、今のわれわれの世代がどうしてもやらなければいけない作業であろうと思います。

それをとりあえず「地球価値創造」という旗印ではじめようとしているわけですが、それを捉えるのにどんなモノサシでやっていくのか。

ここまでは、私の主観ではなく、全部現実に進んでいる事実をご報告してきました。あるいは、日本人が知らないだけで、日本の足下にはこれだけの宝があるのだよという話をしてきました。逆にここから先は、思想、哲学の話になってきます。どんなコンセプトで、しかしこここそ、私たちが頭を働かせなければならないところのはずです。どんな新しい文明基軸、基軸というのはモノサシです。それをどういう風に捉えていくか。

先ほど来、日本の農業は単なるコメづくりではなく、国土保全、景観設計、コミュニティ創生そのものであるとして、「食をつくり 地球をつくる」というタイトルで昨年、JAさんに協賛いただいて、企画展をやり、それをミラノ博につなげてきました。こういう日本の農業のOSをどう捉えるか。

ひと言でいえば、地球環境や自然資本、あるいは社会組織、人間資本に大きくストックしていく。だからTPP参加によって,コメを輸入する方針が立てられたにしても、コメをつくる国土と社会は輸入できない。どこに価値を置き、何を私たちの資産と見るのか、その視点をもう一度つくり直さなければいけない時代にあると思います。

第3章 新たな文明基盤の創生 ~ 人間界に閉じない、地球の「富」に接続した経済

・なぜCSR,CSVだけでなく‟CPV”(Creating Planetary Value)なのか?
~ 地球生態系まで‟share-holder”として内包した「公益資本主義」の考え方

どこに価値を置き、何を私たちの資産と見るか、そのためにそれをどのようなモノサシで捉えたら良いのだろうか。サステナビリティ、日本語に訳して5文字の「持続可能性」という言葉を持ち出せば、水戸黄門の葵のご紋みたいに、全部通るかのように使っていますけれども、ちょっと借り物ではないでしょうか。単に持続すれば良いのでしょうか。もっと大きな価値を私たちはつくってきたのではないでしょうか。そこをもう一度考え直すということになると、持続可能性も、企業の社会的責任(CSR)やマイケル・E・ポーターが提唱する共通価値の創造(CSV)の思想もやはり、われわれを導く道標としては物足りない。どんな概念が必要なのだろうか。

私たちの「食をつくり 地球をつくる」や「水と生きる命のために働く」「都市を森に返す」、こういうキャッチフレーズに象徴されている地球環境と、人間に大きな価値創造の成果をストックしていく文明と経済行為の概念が通じていないのですね。あるいは人間経済の価値創造を人間の世界だけで完結させてしまうという発想がある。

これまでは、たとえばCSVやCSRは、外部経済を保証するために、環境に迷惑をかけているから環境保護をしようといった感覚でした。そもそも木材が採れなくなったら繊維産業は成り立たない、カツオが獲れなくなったら日本の調味料文化もなくなってしまうのです。ですから、そもそも本業の持続可能性の根幹である、サステナブルな自然を守りながらビジネスをしていくことが、日本だけではなく世界でも大きな食品産業などでも、大分そういう傾向が出てきています。

しかし、それだけでもない日本の営みというものがあります。つまり地球の自然資本と、人間資本のポテンシャルを最大化していくことに価値を置いて行く、これって何だろう。あるいは、私も尊敬する原丈人さんが「公益資本主義」の考え方をご提案されて、それはそれで素晴らしいコンセプトなのですが、「公益」というとき、益を享受する公の範囲は、人間世界の公だけではない、地球までシェアホルダーとして含み込んだような公益資本主義がわれわれ日本人の文化DNAの中にありはしないかということです。

・日本文明の「型」(人間-道具-環境)

ここからは私の元々の専門で、文化人類学や文明論の話になるのですが、文明は進歩の尺度として、道具を発達させていく方向、人間にストックしていく方向、大地にストックしていく方向、この3つのベクトルで構成されていると考えてみてください。

 西洋近代文明は、ナイフ、フォーク、スプーンのように人間側の熟練を全く必要としない機能特化した道具を作り出してきました。それが機械として発展することになります。箸と比べてみると、これは単なる2本の棒に過ぎない。機能特化していないので、人間側の熟練がないと使えない。人間の部分があるといかようにも使えるわけです。

衣食住、何でもそうですが、インドは逆に道具の発達はなく人間に蓄積していきました。たとえば、手で食べるわけですが、あんなに手を汚さずに美しく汁物のカレーをすくって食べるという、とても難しい事をしている。人間の内部の技能をとても発達させている。あるいは何の裁断もない1枚の布のサリーですが、本当にグルグル巻かれて、最後は美しいドレープをつくり、残った布を肩にかけて、日差しが強いときは残った布を日傘替わりにし、子どもが寒がっていたら残った布で子どもを包む。美しいドレープは、皺ができることによって、そのあいだに微気孔をつくるわけです。それによって、外の温度が寒くなろうが、暑くなろうが、体内の温度を保つ役割を果たすという、非常に高度な衣服文化なのですが、ハードウエアとしての1枚の布を人間の技能が、道具としての未発達性を補っています。

 これはどちらが良いと言っているわけではないのです。ただ、われわれはどうも明治以降、西洋近代の文化をひとつの規範にしてきたために、道具や機械の発達イコール進歩という前提で考えているところがあります。そうして道具や機械が発達していないインドの文化原始的かというと、そうではないわけですね。

 ただ人間の側に蓄積し、人間の技能だけに重きを置くと、外からの進歩が見えにくくなり、同時に、普遍化できない。一方で、道具が発達していると、どの道具を持って行っても、地球の裏側でも使えてしまう。ポータビリティを持ち、世界的な普遍性が見える。

 でも、違うモノサシで測ったとき、どちらが優れているか、全然違ってくるわけです。西洋の場合、人間がどんなに馬鹿でもスイッチポンで同じ結果が出る。それはそれで世界に広がったし、便利な部分はあるけれども、逆に人間の機能を代替していく方向に偏っている部分がある。

では、その2つの対称性に対して日本はどうかというと、日本は面白くて、道具も発達し、同時に、内的な洗練もある。だから箸そのものも、大変な洗練を繰り返してきているが、同時に人間の技能を高めている。さらに面白いのは、道具のほうに偏っているか、人間のほうに偏っているかに対して第3の軸、大地のほうに価値創造の成果を蓄積していっている。

CPV_7949-1それは、田んぼや棚田です。あのネットワークが成立するためには、大変広域な水利システムが必要です。その水利システムをコミュニティがきちんと毎年、掃除をするなどメンテナンスしながら支えています。ゼロからつくるより、はるかに効率的です。また、徳川家康が利根川を銚子方面に付け替えて、江戸を控えた東京湾に流れ込まなくしたように洪水を緩和しながら、生物多様性豊かな国土を、いつも更新しながら守っているところがあります。

 日本の自然で、手つかずの自然は余りないのです。つまり西洋近代型の原生林や手つかずの自然に重きを置くよりも、人間が何か手を加えたことによって、逆に自然の可能性、ポテンシャルが上がることが非常に多く、そういう方向に発達してきた部分がある。

 しかしながら、人間に蓄積したものが見えにくいのと同じように、大地に蓄積したものも、進歩のあとが見えにくいわけです。道具や機械が発達していると、これはすごい、ということになるわけですが、大地がいくら美しい生態系を持っていても、里山にカエルがいて、コウノトリがいてという風景を、現代の日本人自身もほとんど与えられた自然だと思っています。日本人自身が、これは人間が共同でつくってきた成果であることを、忘れているわけです。それくらい見えにくく、自然の一部に溶け込んでしまっているのです。

・「地球会計システム」の構築

 逆に、私たち自身がもう一度、地球環境の価値評価と同時に、そこに投入してきた自然の一部として融け込んでいるものをきちんと価値として見出すことが出来るような尺度をつくり直す必要があります。

 地球会計でいうと、自然資本や、地球生態系が与えてくれているサービスを経済価値に換算して、もう一度きちんと守っていきましょうという動きは段々出てきています。

具体的には、いろいろな形で、今まで無料と思っていた自然の恩恵みたいなものを数値化するTEEB(The Economics of Ecosystem and Biodiversity:生態系と生物多様性の経済学)の考えがあります。これは、有名な例ですが、ニューヨークでは水の浄化施設をつくるコストよりも水源地の環境を保全したほうがずっと安くすみましたなどという形で発表されています。また、森を保護することによる温室効果ガス排出防止の経済効果は日本のGDPに匹敵する450兆円などといった形の試みがここ数年、ようやく出てきました。

これはこれで、外的な環境保護、CSRを超えて人間経済に外部経済を内部化する手段としてはとても有効ですが、これが到達点かというとそうではない。やはり、まだまだ人間にとってどれだけの費用対効果があるか。持続的な成長をどれだけ確保してくれるかという視点で、もう少し先があるでしょう。

つまり先ほど来言うような、私たち自身の文明のあり方ということで、自然資本や人間資本を最大化していくことに価値を置く、そういう文明のあり方をもう一度つくっていき、そこから何かを考えていく。あるいは世界のルールメイキングに参加していく。それこそが、実は今、世界が潜在的に必要としていることではないのでしょうか。

日本の独自性というだけではなく、こういう観点で、利便性を高める機械や道具の発達に重きを置く方向だけではなく、人間の価値や環境の価値を最大化していく。それを経済のベースに置いて行くような価値観の転換が必要です。

 例えば、雨水は誰のものかという議論があります。公共財か、私有財か、そこで議論しているだけではなかなか埒が明かないのですが、基本的に雨水が自分のところで手に入るのは森があったり、日本の場合は水田があったり、いろいろな人間が大地に蓄積してきた自然資本を増幅してきたり、物をメンテナンスするような人間社会の資本を、コミュニティーウエアという形で担保してきたり、そういうものの成果物として、雨水が結果的に自分の利用できる水になっているといった風に考えると、決して自分の土地に降った雨だから自分のものだという単純な論理にはならないはずなのですね。

 だから簡単に整理できることではないけれども、少なくとも人間が自然資本の中に投入し、蓄積してきた、しかし自然の一部として融け込んでしまっているから、その価値が見えにくい。そういうものを価値として「見える化」していく議論はこれから、もしかすると本当に必要だし、そういう新しいモノサシを持って世界のルールメイキングに参加していくことはこれから必要になってくる時代ではないか。

 それから環境会計というとき、大抵は、この森はこれだけの水をつくってくれる、洪水を防止してくれる、全部換算すると何億ドルといった話になるわけですけれども、人間が自然資本とコラボレーションして、人間が付加増幅し得る価値、これは特に先ほどの水田や里山など、いろいろなことで考えると日本からしか出てこない尺度だと思うのですね。

 さらに、どうも生態系サービスを利子のように考えがちです。つまり森などの自然はストックとしてあって、その資本から生まれる利子として空気を浄化し、水を浄化し、洪水を防止するなどのものとして生態系サービスを捉えることもできます。

先ほど来、この地球儀で説明してきたような災いと恵みの総則性を思い出してください。ナイル川のエジプト文明も、毎年の洪水で、ミネラル豊かな水が保水されるから、何千年も持続可能な農業ができました。けれども、安定した自然、その自然を保護することによる利子といった単純な話だけではすまない、いろいろなつながりがあります。

例えば、イスラエルの辺りは大変な渡り鳥の経由地なのですが、イスラエルの空軍機が鳥と衝突する事故が多く、これを防ぐために渡り鳥の研究を始めたところ、鳥ってあちこち移動してエサを食べるだけのように思いがちですけれども、イスラエルでたくさんの鳥が死んで、ヨーロッパやアフリカにも鳥が行かなくなると、ヨーロッパとアフリカの生態系が成り立たなくなるということがわかってきました。このように、実はイスラエルでの鳥の保全は、ヨーロッパやアフリカの生態系の維持に重要な位置を占めている話なのです。これまたスケールが大きくて、荒唐無稽な話、わずか小さな鳥からそんなと思われるかもしれませんが、実はイスラエルでの渡り鳥保全は、これだけの地球経済を維持するような営みにも潜在的になり得るということです。

こういう視点が、2050年くらいには子どもたちの中で当たり前の感覚になるでしょう。あるいは畠山重篤さんで有名になった「森は海の恋人」、森の腐食物質が海のプランクトンを育てる。腐食物質に包み込まれた鉄分というものが絶対に海には不可欠である。川から海に出ていったシャケが数年ベーリング海を回遊して、戻ってきて故郷の川を遡り最上流で死ぬことで海の微量原子を森に届けるから森が育っているのだといった、こういう精妙な地球のつながりを、ようやく私たち人類は理解しはじめてきているわけです。これを自然の美しい話として、人間の経済の話はまた別、などという段階を超えて地球経済のロジックの中で、人間経済をもう一度位置づけ直していく、そういう新しい知的冒険をはじめなければいけない段階にきていると思います。

そういう意味でのブロードバンド化した地球経済の概念、変動、攪乱、災いと恵みといったことまで内包した骨太な地球会計の概念は、一朝一夕にできるものではありません。これから5年、10年といろいろやっていかなければならない話だと思います。少なくとも西洋社会ではじまっている、たとえばニューヨークで水源を守ることでこれだけの経済効果がありますよと、これはこれで素晴らしい動きであり、これを内包した形で、もっと大きな骨太な地球会計の概念をつくり出していくことをこれからやっていきたい、やっていかなければならないと、そういうことを今日は地球価値創造という概念と共に問題提起として提示をさせていただきました。

第4章:対談「自然資本の経済学」大和総研主任研究員 河口真理子氏

竹村:地球会計とか自然資本の考えは、始まったばかりですが、「古くて新しい自然資本」というペーパーの発表を間近に控えた河口先生をお招きし、自然資本の考え、概念をお話頂きます。

CPV_8097 -2015-1河口:本題に入る前に、自然資本を私たちが無茶苦茶に壊しつつあるという事例をご紹介して、自然資本という考え方、宗教的なところから入ってみたいと思います。

今の時期は、クロマグロが対馬沖で産卵するのですが、それを日本の漁船が巻き網で一網打尽にし、スーパーでキハダマグロやビンチョウマグロよりも安い値段で売っているのです。

クロマグロはメキシコまで行き300キロほどに成長するのですが、まだ30キロくらいのチビで、かつ妊婦なので栄養価があまりない。それを余りにもゴッソリ獲るから獲り過ぎて値崩れを起こし、キハダやビンチョウより安くて、一部は捨てているみたいな話が業界関係者の中でされている。一方、メキシコでは、5年間の禁漁を国で決めて保護している。日本でも世論を動かして、産卵魚の捕獲を禁止すべきだと思います。これはなるべく多くの人に聞いていただきたい自然資本の破壊例です。

 先生のお話の中で「バッドデザイン」という言葉がたくさん出てきましたが、その背景にある大きな枠組みのひとつとして、「評価されているものは、価値あるものとして評価されるけれども、そうではないものは無価値のものとして切り捨てられる」という今の近代経済学の仕組みがあるのかなと思います。そこで、皆さんが段々と寄って考えたのが自然資本という考え方です。自然自体を資本として、そこから生み出される生態系サービスを利子として使うけれども、ストックには手をつけない、あるいはストックを増やす方向にいこうということをしないと、多分、アウトであろうと、自然資本の考え方が注目されてきて、私も、今度のペーパーの表題は「新しくて古い自然資本の考え方」としました。

なぜ「新しくて古い」のかといえば、自然資本という言葉は、今の段階で聞くと新しく響くのですけれども、実はルーツは昔にあって、今から自然資本という考えを導入することは、ある意味、先祖返りをしようとしているという風にも考えられます。

昔からお金で利子を取ることが「良」とされていたかというと、昔はいけなかったのです。特に一神教の世界では、利子はダメでした。旧約聖書の時代のキリスト教もそうですし、ユダヤ教も、イスラム教も利子を取ってはダメという教えがありました。今もイスラム教ではダメです。基本的には、キリスト教では自然でないものが何か新しいものを生むというのはおかしい。イスラム教では、神という絶対的なもので、お金は記号で、記号はものを生まないという教義に因ります。

ところが、中世以降になると経済が発達してきて、どうしても金利を取ってビジネスを回していかなければならないという要請が増えてくるのですね。資本を蓄積して、両替して、お金を増やしたいという要望が増えてくると、金利はダメといっていたら経済が動かないという、現実世界の要望と、キリスト教会の要望があって、教義の中では利子は産んではいけないけれども、現実世界としての要望は強いからそれを認めていかなければいけないと、なし崩しになっていく。さらに重農主義と重商主義が出てくると、どうしても「金利を取る」ことの理屈をこねなければならないのです。理屈をこねるところで、重農主義は、お金が子どもを産んではいけないけれども、人が大地に働きかけることによって大地が生み出したものを価値として認める。その結果として、農作業を通じて価値を創造して、そのプラスアルファを認めるという意味での利子は良いよというロジック。重商主義は、貿易をすることによって違うものと違うところで交換したら、その差益の部分を利子として認めるのは良いよというロジックで利子というものが認められました。

そこから近代主義がはじまり、資本の蓄積が大変な勢いではじまり、また宗教的にプロテスタントの教義となる新約聖書が出てくる。そういう動きがあって、資本というものが大手を振るって出てきた。それは中世以降なのですね。

そこで、金利を認めたことは良いけれども、なぜ近代経済学はバッドデザインか。いわゆる経済学は、市場というものを通じて、売り手が売りたい物と量を、買い手が買いたい物と量を言って、それが一致するところで需要曲線と供給曲線が混じり合うからハッピーに取引が成立する。そこで市場価格という、誰が見ても公正な価格がつき、それが資源を一番効率的に配分するという非常にシンプルなロジックで全てのビジネスや取引は行われているのです。

cpv_7955一方、ここに市場取引に合わない物、財というものがあります。それは公共財という考え方なのです。何かというと、取引に適している財は、財の性格として「競合性」と「排除可能性」の2つなければならない。競合性というのは、私が飲んでしまっては他の人が飲むことはできませんというのが「競合性がある」ということですが、自然の資源は余り競合性がありませんよね。お日様が照っていたら、その下に皆がいても良い。先ほど雨水の問題で、私的に使うか使わないかという問題がありましたけれども、立っている人の頭の上に雨が降ってくることを阻害することはできない。それから排除可能性というのは、特定の人だけにサービスを受けさせられるのですが、自然の資本は違うのですね。たとえばオゾン層の紫外線防止機能、それはこの人だけダメといえないもので、全員に平等にいきますし、太陽の力や自然のエネルギーはそういうものである。

その競合性と排除可能性が、どちらかだけあるものと、両方ないものがあって、だいたい大気のような自然の、今言ったような価値はどちらもないので純粋公共財と言われて、これは値段がつけられません。「値段がつかないから価値がない」という考えとイコールではないけれども、とりあえず同等にしてしまった。

自然資本である森の価値を見ていくと、公共財的な森林機能と、私的な普通の財としての森林機能があります。私的な財としての森林機能とは、木を切って売りにだすと普通の財として市場の値段が付きます。しかし公共財としての森は、水を保全する機能であったり、フィトンチッドみたいなものを出して森の空気を豊かにする機能であったり、他の生態系を守る生物多様性の機能であったり、こういうものが公共財なので、値段がつきません。

森林破壊が進む理由は、目に見える森の価値が、木材の立木の価値がいくらと値段をつけられると、その経済的な価値を得るがために、目に見えない森林の様々な機能、生物多様性の機能といった公共財的な機能は一応、ゼロとみなすからです。ビジネスで計算するとき、木を切ったらいくら、保全してもゼロとなるとどうなるかというと、それは木を切りたくなりますよね。昔だったら、それは先人の知恵で、ストックとしての自然を守っておかないと自分たちの生活が成り立たないことが余りにも明白だったので、一定以上のストックを枯渇させるような形で自然を利用することは掟として禁じられていたわけです。

それが近代になり、石油資源という過去の太陽エネルギーの「塊」みたいなものを無限に利用することを覚えてしまった。今の段階はどこまできているかというと、それが、おらが村の中での持続可能性、自給的な話が、よそに行けば取れるから自給しなくて良いという理屈になった。でもこれが地球規模で広がってしまったら、グローバルビレッジとして地球はひとつなので、よそに取りに行くところはこれ以上ないよね、というところまできてしまい、今、改めて自然資本の考え方が出てきたということです。

これが2005年以降くらいから、積極的に、学者ではなく、かなり政府レベルでも自然資本会計の形で取り組んでいかなければならないと言われてきました。今の経済のメカニズムの中に自然資本会計という発想で、自然を無料として見なすから破壊するのであれば、お金がかかることになればどうしようかという話になるわけですから、排出権取引のような有料化の発想が出て来る。

私は、本質的にはそうだと思うのですね。ただし、今や人間は経済の理論で、それを言語として動いているので、経済の枠組み外のものも言語化できるものはなるべく多く言語化しないと、そこはないものとして使ってしまう。先ほどの先生の話に絡めてすれば、自然が資本になると、自然という資本を増やすことは経済的にペイするアクティビティになり、自然資本を減ずるような活動は、マイナスになるアクティビティになるので、今までやっている経済活動の評価が180度変わるかもしれない。

木を切ってくるのはダメで、逆に木を植えるほうが経済的にプラスと。今は社会貢献活動で木を植えるけれども、木を切るのはビジネスよみたいな、それが逆になるような、そういう可能性も秘めているということで、私のコメントとさせていただきます。

cpv_7996-1竹村 今のお話を聞いていると、雨は皆に降っていたから良かったのだけれども、それがかなり希少になってくる、あるいはそれを占有して売ることで商品価値になると、逆に先ほどのような問題が起こってくる。値段をつけることで解決できる部分と、値段をつけることで逆に新たな問題が生じる部分と、これは本当に世界中で少しずつ起こりつつあります。

 炭素などについてはかなりやるべきことは明確なのですが、水やそういう問題についてはまだまだこれから新しい問題が出てくる。

牛丼の70グラムの牛肉をつくるのに、トータル2000リットル近い水が消費されている。こうした水のことをバーチャルウォーターと考えます。そういう形で水を消費することは、日本では割とネガティブなニュアンスで伝えられますけれども、実は中東など水が少ない国では、それ以上水ストレスを強めるよりも、水が豊かなところでつくった食料を輸入することを選んでいます。そういう形で間接的に水を輸入するほうが地球全体、ローカルにも、グローバルにもそのほうが良いわけです。

ですから、水ストレスの高いところで食料の形で外から水を輸入するのは、「良いバーチャルウォーター」なのですね。逆に水が豊かな国である日本が自国の水を使わないで、使える水がたくさんあるのに、その水を使わずに、9割方アメリカのなけなしの水を使ってつくられた食料を輸入していることは、世界の水ストレスを強めてしまっている、「悪いバーチャルウォーター」の例です。日本が食料自給率を高めることが、世界の水ストレスを緩和することに役立てられます。このように考えますと、逆にそれをきちんと数量化することで、解決にも、使いようによっては使えるわけです。

河口 全て貨幣化すると、やはりこちらのほうが安いから良いよね、みたいな、それまた変な議論になってしまうので、もう少しマクロ的なことで、タダだと思っていたものが実はとても価値があるということ、価値があると認識したら、どのようにその資源を配分したら良いかを考える。

確かに、水が余っているようなところでつくらせて輸入したほうが、水をLCA(Life Cycle Assessment:環境負荷) の視点から考えたらペイするのだという発想は重要だと思いますし、とにかく人間がわかっているつもりで見えている部分は本当に少ししかないなと先生のお話を伺って思ったのは、砂漠って何もないと思っていたけれども、実は森をつくっていとは思っていませんでした。

 ひとつ価値の転換ということで申し上げたいのは、世界遺産の白川郷。昔はずっと同じような合掌造りの家が並ぶ集落が当然、もっと広い地域でありました。戦後、道路ができて交通の便が良くなったら、便の良いところから物資が入って来るので、そんな古臭い、皆で茅葺屋根を葺き替えなければならないのは不便だと、合掌造りをやめていった。近代的なトタン屋根の文化住宅にして、これでいいじゃないかという話だった。白川郷は余りにもどん詰まりだったから、そこまで物資が行かず、要するに遅れた地域だったのです。40年もしたら、豪雪地帯なのでトタン屋根の家はボロボロになり、そして白川郷は世界の白川郷になった。そこでは安いトタン屋根ではなく、葺き替えれば何百年も使える茅葺屋根、太い木、そうしたものに本当の価値があった。

 そういうことから考えると、目先の見える価値と、市場価格で反映されている価値と、もうひとつそうではない価値軸というものがある。白川郷の事例でいえば、今、新しいトタン屋根の家にしたほうが良いのか。それとも、この古い家を残しておいたほうが良いのかという、意思決定をするときに、今までとは違う別な軸、自然は一番の資本であって、本来の価値はここからきているのだということを少しずつ頭の中に入れていくことが大切です。

竹村 ありがとうございました。時間が来ました。第一回のキーノートはそろそろクローズしたいと思いますが、今日お聞きいただいて、大体3つの軸があったかなとお感じいただけたと思います。

1つは「地球可視化」です。つまり地球は大き過ぎて、地球で何が起こっているかわからない。けれども、毎日聞いているイスラム国、シリアの問題でも何でも、実は地球生態系の、自然資本のいろいろな問題に関わってきている。そういう地球の体温と体調という話、異常気象、災害といった話と、実はイスラム国やアラブの春も、何でも繋がっているのだ。地球の体温と体調に私たちはシンクロしながら、いろいろな意思決定をしていかなければならない。そういう時代にふさわしい議論を、“触れる地球”のような、見える化装置を使いながらやっていこうというのがひとつです。

2つに、問題を引き受けた上で、それに対するソリューションが、われわれの周りに、足下にたくさんある。あるいはそれをお持ちの企業、皆さんなのですから、それをきちんと、オールジャパンで、ラインナップとして「見える化」して、ではどういう価値を届けていこうかと議論する場が余りになさ過ぎるので、それを「地球価値創造」というキーワードでやっていきましょう。

3つは「地球会計」です。しかも骨太な地球会計。3.11を経験した変動体に生きる私たちへの地球会計、そういう概念まで育て上げていくのはまだ時間がかかるかもしれませんけれども、そういう営みをやっていきたい。そういうモノサシ、概念、枠組みみたいなものをどこかで持ちながら、高い目線で皆さんと議論をしたいきたい。

もちろん、この1年で完結するものではないのですけれども、各回いろいろなテーマを設けてやっていきますけれども、少なくとも先ほど言いました地球可視化、地球価値創造、地球会計、この3つの軸を押さえつつ展開をしていき、この2年間の成果をまとめて、「地球価値創造」のタイトルで、今年度末にはバイリンガルでも書籍化し、世界に発信していきたいと思っております。

河口 先生、提案なのですけれども、今おっしゃったテーマに関して、ホリスティックという考え方を入れてはどうでしょうか。近代以降の文明は道具をつくることもそうですけれども、より小さく、分子を原子にして、原子を素粒子など、小さくすると本質に行きつくのではないのという還元主義できました。これは逆にホリスティックに、先ほど言われたように渡り鳥がこうなっている、アフリカの砂漠が実はこうだと、還元主義では見えない、全体を俯瞰して、ホリスティックに全体をひとつの生き物として見るようなアプローチなので、還元主義と真逆なのですね。

 21世紀は多分、還元主義で得た個別、個別の知識を、ホリスティックにどうつなげていくか、先ほどおっしゃったところがはまってくると思うので、それもぜひコンセプトに入れられたらと思います。

竹村 今日はどうもありがとうございました。

[文責:「触れる地球の会」 事務局長 岸本]


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